神社とは神聖な場所である。
正面から入る事は当然であるが、神社拝詞を唱える。
唱える前には、ここで2礼2拍手1礼を既に行うという事。
鳥居をくぐってから
その穢れを祓うためには、殿内に入る前に
まず境内の手洗い場で手を洗い口をすすぐ。
まず右手に柄杓(ひしゃく)を持ち、左手を洗い清める。
柄杓を左手に持ち替え、今度は右手を清める。
柄杓を右手に持ち、左の手の平で水を受けて口をすすぐ。
柄杓に口をつけて口をすすぐことのないように注意するよう。
後の参拝者も使うため。
最後に左手を清めた後、神前に進む。
神前では姿勢を正し、さい銭をおさめる。
再度姿勢を正し、鈴を鳴らし、ここからが大切な事だが
90度で2礼し、胸の前で2拍手、
最後に90度で1礼する。
その後、祈祷を受けるが
玉串料をおさめる事が最も大切な事である。
これは、なぜかというと、神社を維持するためには、そこに常駐する人間の生活がかかっているためである。
神社の人間はこれしかできない。
その人間を養わなければ神社の維持はできないため。
その後、神職が本殿まで案内するので
参拝後、供物を受け取って直帰し
家では、まず神棚に供物を捧げ
その後、祝詞を奏上し
静かにその日を自宅ですごすように。
これが最も大切な月参り(毎月1日と15日の参拝)の順序であるが
服装に関しては正装を着用する事。
礼服の事であるが、スーツでも着物でも構わない。
派手なものは必ずNG。
靴まで見るので綺麗な皮靴を履いてくるように。
土足であがるような所ではないが、汚い靴をはいてくると境内の土が汚れるため。
正装は神社に限らず寺でも当然の礼儀である。
自宅内での神棚の祭り方は
深見の本に書いてあるが
ここでは更に踏み込んで書く。
まず、まさかきを両脇に立てる事。
榊の事であるが真榊(まさかき)というと祭具になるので、どれがそうなのかは調べておくように。
中央に神鏡は置いても置かなくてもいい。
気取っていると思う。
そこまで飾れる立場なのか?と俺は思う。
卑弥呼だったら持っていてもいいが、お前らは卑弥呼じゃないから。
かがみで自分の姿をうつして、かがみから我(が)をとりのぞけば神になるとかな。
そんな事は俺はお前ら人間には与えていないから。
それは厳しい言葉だが、置いても置かなくてもどちらでもいいが、置いたほうが正式だというのが本音だ。
榊さえ両脇にたてれば俺はいいが、水器を真ん中の鏡の前に置けばいいし
その両脇に高月(たかつき)又は皿(かわらけ)を置いて、更にその両脇に、かがり火を置いたらばっちりだ。
神饌(しんせん)も毎日取り換えればよい。
これは供え物のことだ。
コメとか水とかいうが、俺は神だから、神を主(子羊のあるじ=しゅ)と呼ぶように酒(しゅ)をおけばよい。
塩と米と水なのかというと、水の代わりに酒を置くのが裏技だ。
米とともに餅を置けばなお良い。
昔から高価でめでたいといわれている縁起物であるから。
しめなわがあってもよい。
神拝作法
それで、神棚の礼拝の仕方は先に書いた神社と同じ。
作法は当然大切な儀式となるので、守る事。
まず、水で、手と口を清めるが、衣類を姿勢を正す事。
当然礼服だ。
なめてる奴は何もしないからな。
汚い普段着で参るとか。
それなりの態度で返ってくると思えよ。
そうしたら、次に二拝するんだ。
深い辞儀(頭を下げる)を二回しろと言ってるんだ。
そしたら次は二拍手。
かしわ手を二回打て。
何でこんなことさせているかというと由来は色々あるが、おもちゃ屋のチンパンジーのおもちゃがいるだろ。
シンバル打ってるやつ。
お前ら人間ごときはああいうおもちゃに過ぎないだと言っているが、それは暗な意味であって、普通は、音を出して、神様に、「来ました」と伝えているのを、両手を心の前で合わせる事で、拝ませているという事だ。
というわけで、二礼二拍手一礼をここでもやること。
神棚の前も神前なのだからな。
もっともこれは、神に祈る際は、どこであってもやれば良い。
常に神の前にいるのだと思えば、気もひきしまり、普段から綺麗な格好をするようになるので、神前ではやらせているのだ。
それを普段の生活に持って帰り、粛々と禁欲して暮らせ。
そして、祝詞を唱える。
感謝を捧げる。
それから、何かお願い事があれば、のたまう。
最後に、また深々と一礼(一礼にすることな。何度もやっていると格好がつかんから。)をして、神前から退く事。
これが神棚参りの作法である。
祝詞をあげるときは神棚拝詞も唱えろ。
祓詞→神棚拝詞と唱えれば良い。
細かく言えば、祓詞、大祓詞、神棚拝詞の順番に奏上するものだ。
日本最初の神社である一宮社の大神神社の神拝詞のCDにも、祓詞→大祓詞→神棚拝詞の順番になっていて、神拝詞しおりでも、祓詞→大祓詞→神棚拝詞の順番で書かれているのは、これが正しいと決まっている作法だからだ。
もっと細かく言うと、祓詞は神棚の前ではなく、祓棚(祓案)の前で唱えるものだ。
じゃあ細かく言うとどこまでも言えるのかというと
正面にオオヌサ(大麻)があればそれに向かって祓詞を唱えるのだ。
なぜなら、祓詞は、御神前の神様に向かって唱えるものではないからだ。
これがきっちりした礼儀だな。
祓戸の神たちを祓詞で呼んで、祓戸の神たちの霊威で祓が働くと考えられているからだ。
祓には、祓専門の神様がいて、それは神棚の神様とは別だと考えられているのが神道なのだ。
なぜ、こんなことをしたかというと、用件の前に、別の神をおいて、お前らの穢れなんて俺は受けないよと言っているのだ。
お前らが先にしゃべる神は、せおりつ姫とかはやあきつ姫とかのそんな雑魚の神で十分だと言っているのだ。
俺の格式を高めるために前に別の神をつくって置いたのだ。
それともう一つは、俺に祓詞を唱えたら、俺が祓の対象なのか?という話になるからだ。
失礼だから間違っても唱えるなというふうになっている。
だから、神棚の前では祓詞ではなくて、神棚拝詞だけを唱える人が多いのだ。
大幣も火打ち石も持ってない人が多いためだ。
祓案は、腰の高さくらいの小さなテーブルを用意して、そこにオオヌサを置くだけでもよい。
オオヌサがなければ、火打ち石を置いて、そこに御霊威を移す。
玉串でもいい。
大幣を使う時は、まずは自祓いして、次に、神棚にお供えしている御神饌をオオヌサで祓って、最後に、参列者や家族がいたら、彼らを祓うという事になる。
これはどういう事かというと、まず祓詞で祓戸の神を呼んで、大幣(おおぬさ)に霊威を移して祓ってもらうと。
そしたら自分をはらって、神前のゴミ掃除も人間がやって、次に並んでいる穢れ共を祓うと。
神をはらうのではなく、人間が穢れだから祓えと暗に言っているのだ。
お前達に。
いろんな方法があるが、実は全部俺だから、神棚に全部奏上して良いのだぞ。
別にそれでも構わないが、もっときちんとやりたかったらここに書いたのが正式な礼儀作法だ。
ここまでだ。
これ以上細かくはないから安心すれば良い。
これ以上言うと江戸時代の説とかになるから。
言葉も分からんアニミズムの頃から生きている神が書いているから、人間の所作を全部見ている神が書いているが、世界では有史以上100万通りの儀式があるから、神道がどうとかではないのだが、俺は物事に違いというのを設け、違いという意味を作るためにそれを意味(表現)する形を変えて、世界というものを創造したのだ。
だから千差万別の形が諸君らには見えるだろう。
木があり森があるが、その形はどこから見ても一定しないものだ。
その中で一つの何を見つけるのかというと人間が見るものは最初から最後までそこに神在った神以外は存在しないのだ。
そのため、アニミズムを千差万別に作ったが、それは土地土地においての見え方が違うだけと考えれば良い。
そのようなものにとらわれるなと言ったのが釈迦だとカッサパ(迦葉)兄弟(三迦葉(さんかしょう)。
釈迦の弟子となった、三人の兄弟。
)の祭器を全部捨てさせたな。
イエス・キリストも祈りは長々とするなと言ったし、親鸞も南無阿弥陀仏だけだったし、お前たちにとってはそれだけでいいと俺は言っているが、そんなはずあるのか?言ってるだけなんじゃないのか?それとも、その中で一つの本質である神を見出し、真心から祈れと言っているのか?どちらも本当だ。
お前たちが作法を守りて、一心不乱に祈りのみの生活をしていた場合に、俺が、もういいよと言うのだ。
その時は南無阿弥陀仏だけ(又は諸如来諸菩薩諸天善神やセンテンナムフルホビルやサムハラ等)でもいいと言っているのだ。
本当だぞ。
俺が最も強力だと思っているのは高橋(信次)に書かせた「諸如来諸菩薩諸天善神」だな。
この一言あると、俺はちょっとそいつの祈りを見てしまうな。
結局、イエス・キリストの頃の奴とか、親鸞が回って布教してた対象者なんて全員死ぬ奴らだぞ。
別にそれだけでいいよとか広報でやってるだけだから。
そんな長々きっちりやってたら苦しいから広まらんのだ。
広める宗教でやってるから。
釈迦の場合も。
長々やるのは本当の裏技だからな。
初心者が上級者に格上げされる要件がきっちりした祈りを延々と捧げる事なんだ。
世俗を離れて何年もこもって生活して1日中祈りのみを捧げている修行者もいるからな。
毎日寝なくて4日か5日に倒れて寝るような生活で何年もやっている本気の修行者がいるからな。
そういう人は全財産を俺だと思ってどこかの神社に喜捨してるんだぞ。
釈迦とかイエスの宗教が短期間で世界宗教になったのは、そういう面倒な儀式を捨てさせたから広まったと見るべきだな。
しかし、意味を作る上で形の違いを俺はつくったから、お前らがそんな簡単な祈りしかしないんだったら、俺も同じように何もしないから。
それが神社というものなんだ。
神職も祓詞しかやらないし、俺も形式しかやらないから。
お前らが深見の神社参りの作法を示した漫画のようにすごい事をやるのだったら、俺もそれにふさわしい現象は起こしてやるよ。
だが、お前らは何もやらないから俺も何もやらないんだ。
何だ?ジャリ銭とか投げやがって。
誰に向かってやってるんだ?そんな失礼な事。
正装着て玉串包めとか習わなかったのか。
歴代の内閣総理大臣がテレビで国民に手本見せてくれてるのに、何見てるんだ?NHKの受信料は払っていてもNHKはみてないのか?毎年クレーム出されてとりあげられているだろう。
靖国神社参拝が。
あれはわざとクローズアップさせて、それでも神社は大事だからこうしろと暗に言わせてるんだぞ。
結局、お前達に難しい事は何も分からないし、どうせお前達は最後の審判で死んで地獄に行くのだから、死ぬ前に最後に神を思って死ねと暗に言っているのだ。
最後くらいは改心して善い事をして地獄に行けというせめてもの俺の慈悲なんだ。
その善い事というのが一心に俺を思う事なんだ。
それは観音経にも書かせた通りだ。
観音経のようにあそこまでガチガチに祈りをやるのだったらそれでもいいと言っているし、真心があるなら形もあるだろう?だから俺は供え物をしろと口をすっぱくして昔から(聖書以前から)言ってきているのだ。
ただ世界宗教で広まるような話にそこまできつい負担は書けないから、軽度の負担しか広報には書かない。
そこから本人がどういう試練を乗り越えて、それに応じた褒賞を得るかは本人によると暗に言っているが神の用意した世界の裏側のステージであるこの神の試練なのだ。
とにかく形式は大事だから下の順番で唱えていけ。
やる分に応じて何かは起こる。
そうだろう?何も無いのに、ずーっと延々とやっている人間がいるか?
神様参りの裏技本とか、引き寄せの法則とか、そういう本が世の中に大量に出回っている意味を考えろ。
旧約聖書を読んで誰に向かってやっているのか分かっているのだったら、それこそ神道の祝詞にあるように、かしこみかしこみ申せ。
かしこみというのは恐みとも書くが、畏れ多く思い、慎みと敬いをもって行えという意味なんだ。
畏れ多く思い、慎みと敬いをもって祈れとお前ら自身がそうすると祝詞で言っているのにできていないから俺がここで書いて教えてやっているのだ。
旧約聖書やコーランを読めば俺がどんな神かわかるだろう。
イスラムの歴史からも分かるし、社会科で勉強させているバビロン捕囚やペルシアの戦争とか見ていると俺がどんな神か分かるだろう。
旧約聖書に俺の性格を書いてないか?大神神社ができた経緯とか知らないのか?それくらい調べないと俺の事は分からないな。
とにかく形式は大事だから下の順番で唱えていけ。
かしこみかしこみと自ら唱えるなら、謹んで、敬って、心を込めてやれ。
キリストに言わせたように精神を尽くして全力を込めてやれ。
仏教でも八正道の精進なんて常に全力でやれと言わせているだろう。
全力で神に祈れ。
それが正しい定め(正定)だ。
目標を決めて正しく定めるという意味もあるがな。
とにかく形式は大事だから下の順番で唱えていけ。
祓詞(はらえことば)
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊祓え給いし時に 生りませる 祓戸の大神たち
諸々の禍事 罪穢 有らむをば
祓え給い 清め給へと 白す事を 聞きこしめせと
恐み 恐み 白す
神棚拝詞
此の神床に坐します 掛も畏き天照大御神産土大神たちの
大前を 拝み奉て恐み恐みも白さく
大神等の広き厚き御恵を辱み奉り 高き尊き神教のまにまに
直き正しき真心もちて 誠の道に違ふことなく 負い持つ業に励ましめ給い
家門高く身健すこやかに 世のため人のために尽くさしめ給へと
恐み恐みも白す
これは、お前らは八正道をやりますという話を神道で書かせてるんだ。
だから、昔、蘇我氏と物部氏の争いがあったが、結局、同じことをやらせているのが仏教と神道なんだ。
無言で、神道には何も教義ないとか言ってると大間違いだぞ。
慣例で作法をまとめているのが神道であるから。
神道とはお前ら無知な人間には教義なんて唱えられないから神を祭る儀式をまとめたルールなんだ。
それは親鸞が南無阿弥陀仏と言っているのと同じことなんだ。
「祓え給い清め給え」と言わせているのは同じことなんだ。
だから、親鸞に今回は神道でやらせているのだ。
お前らに教義とか教理なんて説けようはずもないから、ただ二礼二拍手一礼とか神棚の前で祝詞を奏上するだけとかそういう話だけにしてるのが神道なんだ。
こう考えると結構金かかるというのが神道であり儀式というものなんだ。
それと、神社に寄付するのは当たり前の事なんだが
財務省のwebなんかでは、震災等の際に、税制上の優遇措置を行える神社やNPO法人があると掲載されているから、その場合は、所得控除や税額控除になるし、個人の場合は確定申告はいるが、法人の場合は損金に寄付金を全額算入できる時があるから、そういう時はもちろん神社に寄付すべきだと思う。
だから、参拝前にそういう制度がやっているかを聞いて、やっていたらその神社に寄付するというのも手であるし、神社も存続のためには税理士が必要になると思う。
会社の場合だったら何年にいくら寄付しましたとかいうのが宣伝にもなる。